100年後のクリスマス [小話]

 11月も下旬に差し掛かる、寒い昼のことだった。訓練の合間、自室のテレビを何となく眺めていた時。ふと、青年兵士の目が止まった。国内の大手スーパー、セインズベリーズのCMだった。ここヘリフォードにも郊外型の大型店舗を構える、市民には身近なチェーン店である。
 約4分にも及ぶ長いテレビCMが静寂の中に流れる。雪の降る中で歌われる、二ヶ国語の「きよしこの夜」。両手を挙げて恐る恐る出会う、ジムとオットー。信じられないような奇跡をその目に映す、役者の表情が妙に感傷的だと彼は思った。
 やってくれたな、と読んでいた本を閉じ彼は苦笑した。映画の風情を模して作られたコマーシャルはやけに感傷的で、質も決して悪いものではなかった。
 それもその筈だ。今年は第一次大戦からちょうど100年の年。感傷的にならざるを得ない。今月ロンドン塔には888,246本の花が並び、国内はすっかり「リメンバランスムード」だ。青年の祖父もまた軍人であったが、それとはまた違った雰囲気をここ一ヶ月のイギリスは漂わせていた。
 翌日、青年兵士は例のテレビCMが動画共有サイトにもアップロードされていることを知り、日頃訓練を担当している仲の良い教官に話題を提供したいとその動画を見せた。赤毛の教官が座るデスクには、同じ色の紅茶と、やはりセインズベリーズで評判と言われるビスケットが無造作に置かれていた。
「やってくれたな」
 子犬のように懐く「生徒」が私物のタブレットで見せた動画を目にするなり、教官は苦笑した。その第一声が自分と同じ感想であったことを、青年は特に理由もなく喜んだ。共感力に乏しいと基地内で四六時中言われる50歳を迎えた訓練担当官の表情が、理由は分からずにしろほころんだのだから。
「私たちもいずれ、この基地の時計台に名前を刻むか。もしくはロンドン塔の花の一本となるか」
 しかし、柔らかな苦笑から漏れ出た感情は諦観にも近い当事者のそれであった。教官は口元に笑みを浮かべたまま、青年に問う。
「お前はどうする? 少なくとも、私のような生き方はあまりオススメしないがね」
 冗談めかして笑う教官を前に、青年もまた苦笑する。
「教官が名前を刻んでくれるなら、自分はとりあえず時計台の方が良いです」
「楽をしようとするんじゃないよ、若造」
 冷え込みも厳しいクレデンヒルに、ビスケットを砕く音がふたつ響いた。

(了)


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